仏像

飛鳥時代の代表寺、法隆寺

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何の前触れもなく、何かが起こることは多々あります。
仏教伝来も例外ではありません。インドで発祥した仏教は中国を経由して、朝鮮(百済)からもたらされました。
後々の世に作られた像もありますが、法隆寺が建てられた当時、飛鳥時代の作品を主に見ていきたいと思います。

法隆寺概要

奈良県斑鳩町にあるお寺で、南都七大寺に数えられます。
南都とは、奈良のこと。聖徳太子が自分の土地に建てた斑鳩寺(斑鳩の里という地だったので)を前身とするお寺で、斑鳩寺の焼失後に建立されました。
何度かの罹災に遭いながらも再建を続け、当時の物があまり残っていない像や伽藍もありますが、多くの人を魅了しています。世界最古の木造建築として1993年に世界文化遺産に指定されました。

飛鳥時代の特徴

「飛鳥時代」というのは仏教美術関連の時代区分です。時期としては推古天皇の時代とされます。この時代特有の部図等の特徴は以下の通りです。

【アルカイックスマイル】
朝鮮から伝えられた仏像には、ギリシア彫刻から受け継がれた微笑、アルカイックスマイルが見受けられます。他の時代はほぼ無表情に見えますが、何だか健康的なにっこりスマイル。これが飛鳥時代最大の特徴です。

【面長で彫が深い】
何となく顔が長めで、意外と鼻の高い、堀の深いお顔立ちです。シルクロード経由でインドから来たのですが、まだギリシア彫刻の影響が残っていた模様。

【平面】
やたら平ったいです。この時代はまだ仏教が入ったばかりということもあり、「ありがたい仏様を横から見るなんてトンデモナイ!」との考えがあったようです。つまり、「前から見えればいいだろう」といった所。別に手を抜いたわけではありません。その証拠に、「ありがたみや迫力を持たせよう」との工夫が見られます。

【左右対称】
絵に描き起こして真ん中で紙を折ったらピッタリ重なるのではないか。そんな気持ちになるような、ものの見事なシンメトリーを描くのも特徴。物の見事な調和はうっとりするほどで、何とはなしに非現実的です。でも、そこに尊い仏の存在を感じていたのかもしれませんね。

【アジアンな服装】
基本如来や菩薩はお釈迦様をベースにしている為、古代インドを思わせる服装が多いのですが、天部などは中国ベースの甲冑を身に纏っています。これは中国経由で入って来た為です。

では、代表の像などを見ていきましょう。

金堂の釈迦三尊像に見る、平たく立体という美

法隆寺でも特に有名と思われるのが、この釈迦三尊像。飛鳥時代特有の微笑が不思議な包容力を持っています。
左手で結ぶ与願印や衣のひだなどが立体的で、前面から見た時の迫力等が計算されているのが伺えますね。脇侍は薬上菩薩(向かって左)と薬王菩薩(向かって右)です。作者は鞍作止利(くらつくりのとり)。渡来人の血を引き、日本の仏像様式を始めて確立した人物。運慶並みに重要な仏師です。

金堂の四天王像は日本最古。袖と手首と足元の邪鬼にご注目

仏教の中心地、須弥山の四方(東西南北)を守護する四天王。
堂内では須弥壇と呼ばれ須弥戦に見立てられます。四天王像は須弥壇の四方を守る存在として、東西南北に当たる位置にそれぞれ建てられるわけです。法隆寺金堂も例外ではなく、日本最古、飛鳥時代の四天王が飾られています。筆を持った広目天や、仏舎利を修めた宝塔を持つ多聞天など、後代の四天王像の元となる姿が見受けられて面白いですね。
像自体はなで肩で丸みを帯びた感じです。さすがにアルカイックスマイルではなく、いかめしい表情もまた渋いですね。注目すべき点は多々ありますが、まずは袖。袖の下が前面に向かって翻っていますが、こうした翻り方は飛鳥時代の様式としては珍しいと言えます。
何せ、「横から見る」ことを意識していないわけですから。後代の作の可能性もあるかもしれません。さて、よく見ないと分からないポイントもあるのです。それは手首の縄。あまり重要な物ではないかもしれませんが、細かい所にも意外と楽しみはあります。

最後に、四天王像と言えば、足元の邪鬼。何とはなしに踏みつけられた邪鬼が角張った動物のようにも見えるのです。ユーモラスでどこか憎めない邪鬼が、より一層愛らしく思えてきますね。

救世観音像が完全秘仏から一時公開されるようになった理由

夢殿に収められた救世観音も有名です。
こちらは秘仏で、毎年春と秋の二度、一カ月ほど公開されます。
観音特有の豪勢な宝冠と、流麗な線を描く衣が何とも言えず美しく、秘仏という言葉が醸し出す独特の美に感嘆し、晒されることのなかった秘仏に指定されたことに思わず感謝してしまいそうなほどです。手にしているのは、願いを叶える宝珠。衣の広がり具合と言い、美しいだけではない力強さ、頼もしさがありますね。
さてこの像、海外にもその美を認められたものでもあるのです。救世観音の美術的価値を認め称賛したのは、アメリカで東洋美術の研究もしていた哲学者、フェノロサでした。
この人物は、廃仏毀釈の煽りも含めた明治時代の「やっぱりこれからは国際化だよね」との気運に待ったをかけました。西洋化を否定したのではなく、「自分の国の芸術にも目を向けナサーイ」ということです。

寺院を調査していたフェノロサは、1884年(1886年説もあり)に法隆寺を訪れました。「救世観音見せて下サーイ」との要求に、僧侶たちは困惑します。何故なら、秘仏だったため。鎌倉時代に記された著作にも「誰もこの仏を見たことがない」といった記述があり、白い布で巻かれた状態でした。
そう、ずっと白い布でぐるぐる巻きだったわけです。聖徳太子の等身大の像であり、分身とも称されている為、「見たら太子様がお怒りになる」との考えもありました。「政府から許可証もとりました!さあ開けなさい!」と情熱の一押し。「ちょっとだけですよ」と渋々の公開。

僧侶たちは祟りを恐れて逃げ出しましたが、ぐるぐる巻きだったため保存状態は良好。「スンバラシイ」と感動。「何か地震が起きてよが滅ぶとか聞いたのに、何も起きない」と戻った僧侶もその美に感嘆し、「ぐるぐる巻きにするの止めよう!」と期間限定での公開が叶ったのです。

正体不明。百済観音

これは先にご紹介した四天王同様、衣が「横から見た場合」を意識した不思議な造形。
問題はそこではなく、江戸時代まで虚空蔵菩薩だと思われていたことです。明治時代、この像の訪韓にピッタリと会う化仏(小さな仏像)が発見されました。化仏とは、観音の証です。
「観音様だったのか」と一つ解決しましたが、もう一つ。「これ本当に法隆寺にあったのか?」インドから運ばれてきた物ではないか、と未だに正体不明のようです。しかし美術的価値の高さは変わりません。

仏像を日本人に受け入れやすくした止利様式

先にも述べた鞍作止利の技法を再現して作られた仏像を止利様式と呼びます。大宝蔵院の釈迦如来像及び左脇侍像や、菩薩像など、止利様式の像も見応えは充分。鞍作止利たちは、飛鳥時代を代表する作風、仏像を日本人の好みに合うよう奮闘して作ったわけです。

まとめ

何にでも始まりはつきものです。
日本最古の木造建築法隆寺、建てられた飛鳥時代に焦点を絞って像をご紹介いたしました。
幸地に作られた像も魅力的な物が多いですが、初心から入るのもいいかと存じます。
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