仏像

飛鳥時代に生きた仏教伝播の立役者、聖徳太子の説話集

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厩で生まれて、日本で初の憲法や官位制度を作った聖徳太子(以下基本的に太子)。
仏教の伝道師でもあり、政治家としても優れた手腕を発揮したこの人物。偉人、聖人によくある話に尾ひれの伝説を沢山持っています。
あれやこれやの伝説、説話、関連寺院などについて語っていきます。

聖徳太子基礎知識

574年に誕生。飛鳥時代を代表する政治家であり、皇族でもあります。
欽明天皇の孫に当たり、初の女性天皇、推古天皇の摂政として、蘇我馬子と共に政治活動をしていました。幼くして学問や仏道に通じ、政治にも仏教を取り入れます。といっても、「民衆共!仏教を信じろ!信じない奴は投獄じゃ!」という恐怖政治ではなく、「仏様の教えを守って、仲良く暮らそうね」といった慈悲の心を持って政(まつりごと)を勧めていたのです。
そして仏教奨励の為四天王寺、法隆寺といった代表的な寺を次々建立(法隆寺を建てようとしたのは用明天皇です)。仏教以外でも神道を取り入れていました。また、家柄ではなく能力によって位を決め、それを色で表す冠位十二階や日本で初めての憲法、十七条の憲法を制定しました。国号を倭国から日本に変えた人物でもあります。
外交にも目を向け、隋の皇帝に手紙を送りますが、「仲良くしようネ!」「日出ずる国から日が沈む国へお手紙でーす」と少々馴れ馴れしい上に相手の神経を逆なでするような出だしだったこともあり、一旦は怒りを買います。しかし、訪れた大使が「いや、聖徳太子すごいわ。こんな人がいる国となら外交してもいい」と思わせる辣腕ぶりを披露。
『日本書紀』を始めとする多くの書物で半ば神格化されてはいますが、それも納得の人物だったようです。「一度に10人だか100人だかがガヤガヤ話すのを聞き分けたのでしょう?」それもありますが、更に凄い伝説もお持ちです。まずは簡単な経歴から。

どこかで聞いた生まれ方

幼名は厩戸皇子(うまやどのおうじ)。何か変わった名前ですが、これは厩で誕生したとの説から来ています。
イエス・キリスト様に似ているって?神話や偉人にまつわる物語はどこかしら似るものです。キリストだけでなく、お釈迦様とも似た部分もあります。
それは、母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)に宿る前。西方からやって来た救世観音が口から入ったという伝説。言ってみれば救世観音の生まれ変わりのようなものですが、お釈迦様も母の摩耶夫人が身籠る前、白い象の夢を見たとの伝説をお持ちです。色々な宗教、伝説で聖人や畏友などが少し変わった生まれ方をしたというのはよくある話。
仏教の布教に尽力した聖徳太子が似たような伝説を持つのも無理のないことかもしれません(ただ、厩で生まれるのは当時としては特に珍しい事でもなかった、との話もあります)。

十七条の憲法は宗教、道徳の教科書だった

太子が制定した十七条の憲法。日本発の憲法とされていますが、実際には「皆仲良くね」とか「仏様を信じようね」「親は大事にしなさい」といった心得を記した、道徳の教科書のような内容だったようです。

実は左遷されていた

推古天皇の摂政を務めるなど、順調な人生を送って来たように思われるかもしれませんが、そんな人は偉人にはなれません。
偉人でも常人でもつきものの挫折を、太子も味わっています。それ即ち、左遷。隋が滅んで唐に変わった際、それまで百済との戦争に備え随と親しくしていた蘇我馬子は大慌て。「やっべー、随と仲良くしようって言ったワシの責任だ。いや、ワシのせいじゃないし」と、責任を太子に押し付けました。この左遷で政治の表舞台から身を引く羽目になります。
新しいお役目は国の記録などを記すこと。かの聖徳太子にも、窓際族時代があったのです。しかし、仏教の研究や、民の暮らしを知ることができたようで、却って太子の名を残す遠因になったかもしれません。だからと言って、左遷されて落ち込んでる人に対し、迂闊に「聖徳太子もねえ」と言って励ますのはやめておきましょう。
その後政治の舞台に戻り、推古天皇の時代に亡くなるまで仏教促進や著作書物の編集に尽力しました。

親鸞和尚も尊敬崇拝、六角夢告に始まる夢での会話

聖徳太子を祀る太子信仰なるものがありますが、浄土真宗を開いた親鸞和尚も太子信仰をし、「太子様バンザイ!」と太子を称える歌を残すほどの熱の入れようでした。「太子様こそ、日本に正しい法をもたらした方だよ」とまで言っています。
親鸞和尚と聖徳太子に関しては、六角夢告という物語がありました。100日間、太子が建てたとされる六角堂にこもっていた若き日の親鸞。なまじ若いので、煩悩もありました。
「お助け下さい」とお堂にこもっていたのですが、ある夜、救世観音の化身である聖徳太子が夢に現れました。「煩悩が消えないなら、私が妻になってやろう。ずっとお前に付き添って、極楽浄土に生まれ変わらせる。これは私の誓いだからね」と言って。この他にも、太子ゆかりのお堂で「どうしたら人々を救えますか」と念じたとの伝承があります。
当時19歳。一心不乱に念じ続けますが、やり過ぎは体に毒。念じすぎて倒れてしまいますが、見えたのはお花畑ではなく、聖徳太子。「チーッス。やってる?」とばかりに現れた太子は、驚く親鸞に告げました。「お前ね。後10年したら死ぬから。でも安心しなさい、清浄な世界に行けるからね」受けたのは、「アラサーで死ぬけど心配するな」という宣告です。
しかし、10年経っても死ぬ気配すらナシ。親鸞ははっと悟りました。「太子が仰った『死ぬ』っていうのは、文字通りの意味じゃない。迷っていた私の心のことだ」仰ぎ見た空は青かった、のかは分かりませんが、悟りを得た親鸞和尚にはもう怖い物はありませんでした。
「極楽往生、清浄な世界に生まれるって、こういうことなのか」つまり、迷いもなく穏やかな心持に至ったわけです。夢で何度もこうした体験をしていたら「ビバ太子様」となるのもなるほど頷けますね。

お箸を広めたのも聖徳太子

仏教だけでなくお箸も広めました。
当時の中国、隋に送り込んだ遣隋使、小野妹子が箸を持ち帰り、「彼の国ではこのようなもので食事をしています」とご報告。「じゃ、日本でも使おう。これから仲良くするわけだから、相手に合わせるのもいいだろう」ということらしいです。これが広まって、いつしか庶民もは死を使うようになったとのこと。それまではどうしていたのかって?ワイルドに手づかみです。

ほぼすべての紙幣に刷り込まれる

千円札、五千円札、一万円札と、現存する全ての紙幣によく知られた太子の肖像が刷り込まれました。昭和初期には百円札にも顔を乗せたと記録があります。日本の紙幣に顔が乗る条件の一つは、国外にも名を知らしめるに値する人物。功績を考えれば納得ですね。

まとめ

仏教を広めた功労者、聖徳太子。優秀ですがそれだけに苦労もあったようですね。それらを乗り越えられたのは信仰の力なのか、それとも「世を救う」との使命感からなのか。

中編で、聖徳太子縁の寺院や著書をご紹介します。法隆寺や四天王寺、斑鳩寺など、聞いたことのあるお寺がありますが、大部分四天王寺です。何故かって?それは見てのお楽しみ。

聖徳太子の説話集・著書と寺院

かつてのお札に刷り込まれて、信仰者の多い聖徳太子。彼に関する説話を、今度は寺院や著書に関して記していきます。

四天王寺の名前の由来

大阪府に現存する四天王寺ですが、この名前には仏教が取り入れられるか否かの戦が関わっていました。
仏教が日本に伝わった時期については諸説ありましたが、現在有力なのは538年説。元々日本人は、自然信仰派でした。
自然物に神が宿るという神道を信じていたのです。そこに、キラキラ光る仏像と共にやって来た仏教に騒然。次に「これどうする?受け入れる?」「なーに言ってるの!神様がいらっしゃるでしょう!」と言った応酬が権力中枢で繰り返されます。仏教受け入れ派(崇仏派)の蘇我氏と、舶来の宗教排斥派(排仏派)の物部氏とで意見は真っ二つ。疫病が流行ったらこれ幸いと「ほーら異国の神様信じるからだ」と攻め立て、中枢もどうしたものかと迷ってしまいます。
交渉が決裂すれば、行きつくところは戦闘。遂には武力行使まで至りました。
仏教に傾倒し、蘇我氏に味方していた太子ですが、戦況が芳しくないとみるや、四天王の像を作り始めます。「この戦に勝たせてください。そうすれば、あなた様方の地院を建立します」と誓いを立てて。すると、物部氏でも特に排仏派だった守屋に矢が命中。
「四天王様!」と感動した太子は、この戦いから6年して四天王寺を建立するのでした。

ド派手な五重塔で人目を引く

飛鳥時代、日本人の家は竪穴式住所というそれはそれは地味で質素なものでした。
貴族の屋敷も、煌びやかさとは無縁。奥ゆかしい日本人の気質が出ています。太子はそこに目を付けました。四天王寺を建てる際、中国や朝鮮のような、原色バリバリのド派手な極彩色を採用。
それを縦に重ねたのが、五重塔です。「何じゃありゃあ!」と人目を惹き、寺に入れなかった庶民にも仏教に興味を持たせることに成功しました。

四天王寺は「日本初」の宝庫!四箇院とは?

法隆寺の方が有名かもしれませんが、四天王寺も太子の建てた寺院。しかも、幼い頃から仏教に親しんできた聖徳太子による、仏の教えを実践したような場所でした。慈悲の教えも会得します。太子は若い頃日本中を旅したわけですが、この間、民が何を欲しているか?
何があれば皆救われるのかを肌で感じたわけです。結果、四箇院という物が出来上がりました。実はこの四箇院、現代ではごく当たり前に存在する物の元になっているのです。

【療田院】
病人、怪我人の治療を行う所。つまり、病院ですね。現在も四天王寺病院として機能しています。

【施薬院】
薬草を栽培し、病人や怪我人の為に煎じる所。療田院共々、慈悲の現れのような施設。慈悲の心を持って行われます。こちらはドラッグストアや薬局と言った所です。

【敬田院】
仏僧が修行に励む所。現在で言う所の学校であり、今尚四天王寺学園として残っています。

【悲田院】
見寄りのない老人、病人などを引き取って世話をする、老人ホームなどの施設のはしりです。
これら皆、仏の教えである慈悲を実践すべく作られた物。今も機能する院があるのも凄い所ですね。

その他縁の寺院

【法隆寺】
一番有名ですね。用明天皇の遺志を継ぎ、完成させたとされます。この時、薬師如来像を送っているとか。

【斑鳩寺】
推古天皇に賜った土地で、元は家でしたが伽藍を建ててお寺にしました。室町時代に焼失後、天台宗となり今に至ります。

【河内三太子】
上之太子(叡福寺)、中之太子(野中寺)、下之太子(大聖勝軍寺)と各々異名を持つ寺院です。皆大阪府にあるので、この名前で河内三太子と呼ばれます。

【太子七大寺】
四天王寺、法隆寺の他中宮寺や橘寺、広隆寺、葛木寺、法起寺の七つ。中宮寺は法隆寺に近く、橘寺は聖徳太子をご本尊として祀ります。

宇宙人が来る、蘇る、滅亡などの予言まで遺した

偉人の中でも桁違いの偉業を成し遂げてきた聖徳太子ですが、実は『日本書紀』の中でコワ~イ予言もしていました。四天王が「守ってあげる」というような人物です。俗人に見えない物が見えちゃっても仕方ありません。ただ、この予言こと「兼知未然」自体実在を疑われているので、押し入れに閉じこもって怖がることもないでしょう。ただ、当たっている(と思われる)ものもいくつかあるのです。

【史実と照合する部分】
「私が死んで200年もしないうちに天皇がこの地に都を作る。それは荘厳だよ。何回か戦乱に遭うけど、そんな苦難もちゃんと乗り切って立ち上がる。1000年くらい都として機能するかな。1000年したら黒い龍が現れて、東の方に都移っちゃうけどね」(大意)。
聖徳太子が没したのは622年。桓武天皇が京都に平安京を作ったのが794年。時期は合っていますし、戦国時代、奈良県と共に多くの寺院が罹災しますが、復興を遂げています。1000年以上たった今も古都として名高く、海外からの観光客も多いです。
龍は仏教では煩悩、つまり悪い物や脅威の象徴。ここで言う黒龍とは、黒船来航ではないかとの説があります。東への遷都は江戸幕府開幕でなされていますが、朝廷は京都にありました。皇居が江戸、つまり東京に移り「東京都」とされるのは明治になってから。

【人類滅亡】
ノストラダムスの大予言やマヤ暦による人類滅亡詐欺、ではなく予言を、聖徳太子も残していました。大部分が「ハイ、この年に終わるよー」と抽象的な物である人類滅亡の予言ですが、聖徳太子の遺した物は「予兆付き」。「お釈迦様の入滅から2500年くらいしたら、予兆が始まるよ」とされているようなのです。

【隕石落下で日本は分裂?】
「都が東に移って200年くらいしたらクハンダが空から来る。そうしたら都も分裂しちゃうよ」とも言ってます。クハンダというのは仏教でお馴染みの末法思想における、「そのうち現れる悪鬼神」という馴染みたくない存在です。このクハンダは「空から来るって、隕石じゃないか?」とされており、文面からするに日本は分裂する模様。

【宇宙人がやってくる】
ここまで来ると「いやいや、それはないでしょう」という気にもなりますが、この予言も「聖徳太子が言ったもん」と語り継がれています。といって、宇宙人と人類が仲良く手を取り合うという内容でもありません。人類は先のクハンダこと隕石を始めとする災厄(詳細は不明)で全滅するからです。その宇宙人が新たな地球の支配者なのでしょうか。まさか、入滅後56億年後に現れるというお釈迦様の後継者、弥勒菩薩の正体?

まとめ

人類滅亡まで予言していましたか。話が変わるようですが、箇条書きマジックというものが存在します。
まったく性質の異なる二つの存在(架空の人物等)の共通点を書き出してみると、結構似通った点がある、というものです。
実際に見るとまったく印象もテーマも違う作品の、まったく性質も役割も違う人物にもかかわらず。予言という物もこれに似たこじつけで「当たっている!」とされるケースもありますが、聖徳太子には色々と聖人然りとした伝説もあるので、あながち妄想とも言い難いかもしれません。

後編で、トンデモ伝説をお送りします。それを見て、予言が的中するか否か、考えるのも面白そうですね。

聖徳太子の説話集・トンデモ説

偉人、聖人の常であるトンデモ伝説の付加。
聖徳太子にも「それ本当!?盛りすぎじゃない?」と聞きたくなるような伝説が沢山あります。
予言を残している時点で十分トンデモですが、あれよりも更にぶっ飛んだ内容です。

神馬で富士山を越える

我らが太子、一度に10人もしくは100人の話を聞き分けたとも言われますが、優れていたのは頭や耳だけでなく、目も同じでした。見る目があったわけです。
そして、それは動物に対しても発揮されました。まだ20代の若者だった頃、日本全国から馬を集めさせます。「うん、みんないい馬だね」と、集まった無数の馬を見ますが、ある馬を見たとたんにピーン!とセンサーが反応。
それは、甲斐の国から来た白い黒駒でした。白いのに黒駒って所は兎も角、太子はその馬が神様の乗る神馬(しんめ)だと気付いたのです。「これは凄い馬だから、ちゃんと飼育してね」と舎人(皇族付きの雑用係)に言い含めました。
半年近く経った頃に試乗すると、馬は太子を乗せて文字通り空へ飛び上がります。ペガサスなら羽があるのでまだ分かりますが、見た目にはただの馬。しかし、神馬なので飛べるのです。そのまま富士山をも飛び越え、信濃の国まで行って、三日後に帰って来たとか。「ただいまー」とそれはもう、晴れやかな表情で。

聖者は聖者を知る、片岡山伝説

それは、613年のこと。我らが聖徳太子は奈良県にある片岡山へ布教活動に出かけました。
すると、道端に人が倒れています。「どうしたの?大丈夫?」倒れている時点で大丈夫じゃありませんが、太子は声を掛けました。
その人物が飢えで倒れていることを知り、「じゃ、これあげるから元気だして」と、食糧、飲み物と自分が来ていた衣を脱いでかけてあげました。助けてあげないの!?という気もしますが、「じゃ、ゆっくりお休みね。私は先に行くからね」と声を掛けて歌を詠み、太子はその場を後にします。「いや、助けてあげて」というツッコミはなしでお願いします。きっと、太子も助けたかったはずです。
現に、翌日には使いをやって様子を見に行かせました。その人物は残念ながら亡くなっていたとの報告。「そうか、かわいそうに」と、太子はその人物の為に墓を作り、埋葬をしてしっかりと蓋をするのでした。それから数日が立ち、太子は家臣に言いました。「この前埋めた片岡山で埋めたあの人だけど。多分普通の人ではない気がする。というか聖人だと思う。お墓の様子見てきてくれる?」「メンドッチーナ!」と家臣が思ったかは分かりませんが、言われた通り様子を見に行き、青い顔をして戻ってきました。「お墓には動かした形跡はまったくありません。蓋もちゃんと閉まっていました。
しかし、中に死体がありませんでした」何故彼が墓を暴くことにしたのか?家臣は続けます。「太子様がお召しになっていたあの衣が、きちんとたたんで蓋の上に置いてあったのです!」ドラマだったらここで雷が鳴るような、地味にホラーな展開。しかし太子は落ち着いたもので、「じゃ、その服持ってきて。置いてったってことは、いらないのだろう」。
改めて家臣に持ち帰らせた服を、何事もなかったように着たということです。
脅威の脱出マジックと、動じない太子。しかも、「聖人だったのでは」と感じとる太子に、人々は「聖者は聖者を知る」として尊敬と一種の畏怖を抱いたようです。
命令とはいえ、曰く付きの服を回収した家臣も凄いですけども。

前世は南嶽慧思

「どなたさんですか!」と言われれば、中国のお坊さんです。
中国天台宗の開祖、智顗(ちぎ)の師匠に当たる人物。天台宗は日本だけのものではないのです。厳密に言えば、智顗は中国天台宗の三代目なので開祖ではないとする向きもあるでしょう。しかし、天台教というものをしっかりと確立させ、「天台宗三部作」とまで言われる著書を残していることから「細かいこと言うなよ」と開祖と認識されているようです。
そんな人の師匠、慧思はどうなのか?出家したのは15歳の時。29歳の時に全国行脚の旅に出て慧文という僧の下で禅宗を修行。ある日突然はっと悟り、布教活動を行いますが、その当時の仏教では受け入れられなかったらしく、バッシングに遭いました。宗教界にもあるのです、バッシング。おまけに別の僧侶によって殺されかけます。「南嶽で修行しよう」としても邪魔が入り、何かしようとする度、悪徳坊主に邪魔されました。ここで「コンチクショーが!かかってこいや悪僧共が!」とならないのが高僧です。
むしろコンチクショーではなく、違った解釈をしました。「悪徳坊主がはびこっているのは、末法の世(仏教版「この世の終わり」です)が訪れたのかもしれない。仏の教えを残しておこう」と、金字(金を粉末にし、ニカワなどで混ぜた一種の墨で描いた文字)で重要な経文を書き記し、瑠璃の器に入れて、石窟の中に隠すように収めたのです。この時『立誓願文』なる著書も一緒に収めています。「弥勒様がこのように降臨されたら、私も共に仏道を広めます」といった内容です。

その後、慧思は衡山という山を拠点に教えを広めることになるのでした。この衡山という山、霊験あらたかなありがたいお山とされており、仏教だけでなく道教などでも信仰されていました。その為、慧思の下には宗教問わず人が訪れたとか。先の「弥勒様と一緒に仏教守るよ」発言も相まって「慧思は何回も生まれ変わる」という伝説ができました。人間の想像力のたくましさ、恐るべし。その生まれ変わりの一つが聖徳太子というわけです。では、なぜ日本日本に生まれ変わったのでしょう?

達磨大師との約束

そこには禅宗の祖、ダルマさんこと達磨大師との約束というかほぼ一方的な誘いがありました。
慧思は何度も生まれ変わって何度も説法をすると宣言した(ということにされた)のですが、これに達磨大師が「待った」をかけました。というのも、慧思の転生先は常に衡山。「アンタ、それしかないの?」と言ってきました。「他にも救うべき所はいくらでもあるんだよ。この山に執着することないでしょ。海の向こう、東の国(日本のこと)なんてどう?あそこも結構荒んでるよ。何なら、私が先に行って待ってようか?」というのが達磨大師の言。
その言葉に思う所あったのか、慧思は日本に生まれ変わりました。仏教が入ってくるタイミングに、皇族として生まれることができたたのは、高僧として徳を積んだためかもしれません。ついでに言うと、「先に日本に行っている」という約束は、片岡山で果たされていました。飢えた旅人として現れたわけです。
生まれ変わっても慈悲の心はあると見て安心して帰った、という所でしょうか。

まとめ

救世観音の化身とも言われる聖徳太子信仰も、色々見直されているようです。
「いくらなんでも盛りすぎでは?」「プロパガンダに利用されただけでは?」との声もありますが、名だたるお寺を多く建て、人々を救い、慕われたたのもまた事実。
この先、更なる研究が進めば、1000年以上も不明だった事実が明らかになるかもしれません。仏道も人物も、結構奥が深い物なのです。
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